++白衣の人++







それは、ある種の熱病を避けるため。



「ねぇ、浦和とマンチェスターユナイテッドの試合一緒に行かない?」
「行かない」
「じゃあ映画!スターウォーズ公開したら行かない?」
「行かない」
「ん〜ライブ!サマーソニックは?」
「行かない」
そんな質問を次々として来るのは彼氏でもクラスの友達でもバイト先の人でも
ない。先生だ。理科の先生。これは絶対に間違っているといつも思う。
「俺がおごるのに・・・」
いや、先生。どれも凄く好きだから行きたいんですよ、ホントは。ただ…
「先生、私、受験生なんです」
今年は我慢の年なんです。それを知っていて先生はいつも私を誘う。
「知ってるよ。俺がお前のクラスの生物担当してるんだから」
先生の生物は分かりやすくて評判がいいし、先生自身まだ二十五歳で若くて親
しみやすいから生徒には人気がある。そんな先生がなぜ私をこんなに誘うのか
は今だに分からない。
そして今まで私はイエスと言って首を縦に振った事はない。
「で、美優。お前大学はどこ受けるの?」
先生は二人きりの時だけ私を下の名前で呼ぶ。今は生物準備室で先生と私二人
きり。私は先生のデスクの隣りにある椅子に座って、先生が入れてくれたコー
ヒーを飲む。
「名大の法学部」
先生は白衣が似合う。白衣のポケットから手を出す時やチョークを持つ手には
ドキドキさせられる。その白衣を今脱ごうとしている。
「先生白衣脱がないで」
思わず口に出して言ってしまった。言った後で後悔した。
先生が私を凝視している。
「何で?俺の白衣姿って素敵?」
「別に。先生ぽいから」
先生は微笑を浮かべた。浮かべて先生は時計を見て言った。
先生が“先生”に戻った。
「ほら、昼休み終わるから早く行けよ。次俺の授業だから」
「はーい」
自分が呼び付けて引き止めているくせにそんな事を言う。
私はそれを素直に聞いて教室に戻った。




一時からの五限目の生物で五分前に見た先生の顔をまた見た。
白衣は着たままだった。
「で、その問にあるように核には表面に小さな穴があって・・・」
いつもは、少なくとも私の前ではどーしようもない先生が授業をしている時だ
けは真面目になる。どうしてこんな正反対なんだろうといつも思う。
「はい、倉橋さん。問3の答えは?」
我に帰った。
完全に自分の世界に入っていた私を当てて来た。
いつもとは違う呼び方で私を呼んだけど、さっきと同じ微笑を浮かべている。
ちょっとムカついた。
「原核細胞」
「何で?」
授業中だけは眼鏡を掛けた先生が私を見る。
「はっきりした核がないから」
先生は微笑した。
「さすが」
今の言い方は間違いなく“先生”じゃなくて、私と二人きりの時だけ姿を表す
先生だった。先生は私が違う世界に居た事に気付いていたのかなぁ。
私もうっかり笑ってしまった。


「おい、倉橋」
隣の席の服部が私の肩を叩いた。
「何?何か分からない問題あったの?」
なぜそんな事聞くかというと、服部は本当にいつもいつも先生に聞きに行かず
に、分からない事はこうして全て私に聞いてくるからだ。
「違うよ。いつも思うんだけど、矢代ってやたら倉橋見て笑う事ない?」
服部の癖になんて質問をするんだと思った。
でもその質問に深い意味はないと思った。
「気のせいじゃない?矢代、誰にでも笑顔じゃん」
「そっか、そんな事より倉橋。この問2が意味分からねぇんだけど」
結局分からない所を質問するのかよ。
私は服部に解き方を教えて、自分も頭を授業に戻した。




「矢代先生〜、質問してもいいですか?」
そんな甘い声で授業終了後、先生の元へすぐにノートと演習用の問題を持って
いくのは保井真緒だ。
彼女は質問攻めの常習犯で、先生の授業の時には必ず質問に行く。
でも私は知ってるよ。
真緒は全部解き方とか分かっていながら、質問に行く事を。
あんなに頭のいい彼女が生物だけ出来ないなんて事は絶対にないと思う。
そんな真緒に先生はやっぱり笑って対応していた。
「またお前か、保井。今日はどこ?」
「この浸透圧の問題で・・・」
真緒は申し訳なさそうに頭を掻いて笑ったが、私はその問題を友達に教えてい
た真緒を見ちゃったんだよね。
って、なんでこんなに先生の事観察してるんだろう。やめよう。
見ない見ない!!
先生が教壇の所で真緒の質問に答えている横を、私は生物の教科書類をロッカ
ーに入れようと思って通ると、先生の腕が私の肩をつかまえた。
「今日放課後」
先生はそれだけ言った。意味はそれ以上言わなくても分かっている。
「はい」
真緒は多分今の会話を不思議に思ったんじゃないかと思う。
と、同時に変な視線を感じた・・・気がした。




「倉橋」
名前を呼んだのは服部だった。SHRが終わった後、人がごたごたしている教
室の中だった。
「ん?」
何だかいつもの服部じゃないみたいな堅い表情だったかお腹でも痛いのかなぁ
と思ったけど違うみたいでした。
「何?」
服部は何だか落ち着かない様子。
「あのさ、飯食べに行かない?なんかお食事券もらってさ〜」
服部はそれを見せながら言った。お食事券もらうような所といえばホテルのレ
ストランとかそういう所だよね。
行きたいなぁ。
「いつ?」
「今日」
「今日は多分・・・」
いや、だめだ。
今日は放課後に先生に呼ばれているんだった。
「ダメだぁ…先約があるんだ。ゴメン、行きたいんだけど」
でも行きたかったなぁ、高級レストラン。服部も私なんかじゃなくて他の人誘
えばいいのに。
「矢代?」
ドキっとした。鋭い・・・。
でもそんな事ストレートには言えない。
言って立場がヤバくなるのは私じゃなくて先生だ。
「何で先生なの?違うよ、同中の友達」
「ふーん、そっか。じゃあね明日!」
手を振って、鞄を持って服部は教室を出た。その後ろ姿を見送って、友達にバ
イバイをして私も教室を出た。
私が向かうのは生物準備室。






「先生?」
私はこの部屋に入る時「失礼します」という堅苦しい言葉を言わなくてもいい。
初めて先生に呼び出された時にそう言われた。
「美優、入れよ。そんな所で立ってないで」
気付いたら、扉の所でぼーっと立っていた。
「今日は二回も呼び出したね」
「美優と話したいからね」
本当にこの人は教師なのだろうかと一日に一回以上は必ず思う。
口上手だし、顔も悪くないからホストでもやればいいのに…とよく思う。
そして先生は私がこの部屋に来ると必ずコーヒーを入れてくれる。
他の生徒にはしてないよって言うけど、この人の言う事だからイマイチ真相は
分からない。
先生は私にコーヒーを渡して、それを飲みながら話をする。
「さっき、友達にご飯誘われたんだ〜。高級ホテルのレストランで。先生が私
を呼ばなかったら行きたかったな」
先生はやっぱり笑った。
「高校生の癖に?」
「お食事券貰ったんだって」
私専用マグカップの中のコーヒーはもう飲み干してしまった。
「俺が連れてこうか?」
先生はいつものように私を誘う。
「いいです」
先生はさっき以上に面白いといった具合に笑う。
「受験生だから・・・じゃないだろ?」
思い当たる節がある。本当は凄く行きたいんだけど。
「だって」
「だって?」
先生がじりじりと私の座っている椅子に近付いて来た。先生と私は本当に至近
距離だった。こんなに近付いたのは初めてかもしれない。
「失礼します」
そんな最中に、聞き覚えのある声がした。私達は我に帰って扉の方を見たら、
凄く知っている人が立っていた。
「矢代先生・・・倉橋」
「は、服部」
服部の表情はやっぱり堅かった。怒っているようにも見える。
服部は思いっきり準備室のドアを閉めた。
「倉橋から離れて下さい、矢代先生」
先生、これっていわゆるヤバイ状況というやつなのではないですか・・・?
「悪いな服部。今倉橋の目に睫毛が入ったから取った所なんだよ」
先生はとっさに服部にそう言った。服部は多分信じていない。
「そ、そう。先生睫毛取ってくれてたの。もう取れて大丈夫だから」
とりあえず先生の言葉に信憑性を持たせるために私もそれに付け足した。
それでも服部は先生を見つめている。私には目も向けずに先生だけを。
「矢代先生。教師が生徒に手を出していいんですか?」
生物準備室の中には重々しい空気が流れていた。服部は戒めるように先生に質
問を投げかけた。この質問の答えは一種類しかないというのに。
「ダメだよ」
先生はそれに素直に従った。先生は深刻な表情をしているのかと思ったけど、
違った。服部は気づかないかもしれないが、これは間違いなくどうしようもな
く笑いを堪えている顔だ。ただ、あまりにも堪えすぎて顔が固くなってしまっ
て、真剣な表情との区別がつきにくいけど。
「じゃあ、何で倉橋に手を出すんですか?」
先生はまだ私に手なんか一度も出してない。みんなに言えないようないかがわ
しい事は何一つしてない。
「先生は・・・私に手なんか一回も出してない」
私は先生を守ろうと思った。先生がこんな事で、無実の罪で教師を辞めさせら
れるとしたら私はこの先の学校生活をどうやって過ごせばいいのか分からない。
それに、先生には辞めて欲しくない。
「先生は何も悪くないんだって、服部。お願い聞いて」
「お、おい美優・・・」
先生は私の肩を掴んで喋るのを止めさせようとした。先生はもう私の事を苗字
では呼んでいない。
「わ、私が勝手に先生の事好きなだけだから。先生は何も悪くないの」
「・・・く、倉橋?」
服部は驚いて口をあんぐり空けた。驚いているのは無理も無いと思う。
だって、服部は先生が私に興味を持ってるって思ってたみたいだから。
「嘘だろ倉橋・・・だってお前今まで一度も。俺お前の事好きなのに」
「ごめんね服部。お願いだからこの事は誰にも言わないで・・・ね?お願い。全部
私がやった事だから」
そう言って服部に謝ると、先生が私の手を引っ張って、庇うようにして前に出
た。先生は私の手を強く握っていた。
「俺が、こいつの事振り回した。美優は何も悪くないから。俺の事はどうにで
もすればいい。誰に告げ口してくれても構わないけど、絶対にこいつだけは巻
き込むな。俺は転勤でもどうにでもなるけど、こいつは・・・退学になったら大学
も全部ダメになるから」
いつも二人でいる時の先生が、私を優しく庇った。庇ったというよりは私を守
るような事を言ってくれた。それが少しだけ嬉しかった。
いつもしょーもない事しか言わない先生がこんな真面目になっているのを見る
のは授業以外では初めてかもしれない。
それが少しだけ嬉しかった。
服部はため息をついて言った。
「言いませんよ。俺、倉橋の事好きだし、先生だって人気あるから俺が追い出
したって皆に知れたら居心地悪いし」
そして悲しそうに笑った。精一杯の笑顔なのかなと思った。
「ちょっと意地悪言ってみたかっただけだよ。すいません邪魔して」
そう言って鞄を持って服部は生物準備室を出て行った。扉を閉めずに。
その背中は少し寂しそうだった。



先生は開けっ放しだった扉を閉めた。これでまた準備室で二人きりになった。
そんな事はいつもの事だけど、なんだか違った。
「俺のこと、好きなの?」
沈黙を破ったのは先生の一言だった。ああ、こんな風に丸く収まるなら最初か
ら何も言わなければよかったと後悔した。
「だって・・・先生辞めさせられるかもしれないと思って」
先生が私の方に一歩一歩近づいてくるのが分かった。
「俺のために言ってくれたの?」
「だって・・・」
「だって?」
先生はだっての続きを聞きたがった。だっての続きを言えば今までの私達の中
途半端で居心地のいい関係が壊れてしまう。
また至近距離だった。さっきと同じ。でもさっきとは違う。
先生の見た目よりも細い腕が私を抱きしめた。
「ありがとう」
先生の手が少し震えていたのを感じた。なんだか理由はわからなかったけど私
は嬉しかった。
「いいよ別に先生。そんな事」
「だっての続きは?」
この距離で先生はいつもの先生に戻った。先生には適わないと思った。
「先生が好きだから」
先生は私から離れるといつもよりも嬉しそうに笑った。笑って私の髪を撫でた。
「美優、よくできました」
そう言ってまた笑った。先生はまた私を抱きしめた。
今まで怖くて壊す事が出来なかった関係が一気に変わった。
私の目の前には白衣の先生。私の好きな白衣がこんなにも近くにある。
昨日までは触れることさえ少なかったのに、一日で距離が縮まってしまった。
「じゃあ、今日レストランには行く?」
顔は見えないけど、先生はきっと笑っているんだと思う。
「い、行きます」
不敵な笑みで。
「今度のマンU戦は?」
「行きます」
先生は私の額に口付けて立ち上がった。何をするのかと思えばコーヒーをまた
入れようとしている。
この人はコーヒーを入れるのが趣味なのかもしれないと思った。
常に入れている気がする。
「素直になったじゃん」
そうして微笑を浮かべた。
壊れてしまった今までの関係から、これからどうなるかは分からないけど。
多分私と先生の関係はこれからもこんな感じなんだと思う。
白衣の人と、その生徒はこれからもこの部屋で密会を重ねるんだと。



あ、先生。ひとつ言い忘れた事があるんですよ。
私が先生の誘いを一度も受けなかった理由。
それはある種の熱病を避けるため。
一度先生の誘いを受けてしまったら、きっと私は今までの関係に我慢できずに
先生を求めてしまうだろうから。
ただの先生と生徒という関係に足りずに。






**END**






















 
 
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